よく分からない写真の考察 高井友紀子
京角さんは写真を撮る目的がなければ引き篭っているような人で、写真を撮れないのなら何処へも行きたくないと言う。
外に出るときにGR(RICOHの小さなカメラ)がポケットに入っていないと不安になり、ショルダーバッグにはカメラのバッテリーを山ほど仕込む。
いつも何個もカメラをぶら下げているので荷物を少なくしようと言うと、全部使うから持って行かないといけないと譲らない。
並んで歩いていたかと思うと、いつの間にか立ち止まって写真や動画を撮っていて、ちっとも前に進まないどころか姿が見えなくなることもしばしばだ。
京角さんにとっては、どこかを目指して歩いているわけではなく、目的が写真を撮ることだから仕方ないのだけれど、行き先が決まっているときもこうだから勘弁してよと思う。
新型コロナが5類に移行し、今年は国内外へ出かける機会に恵まれた。本当にありがたい、ありがたいと感じている。
数年にわたり半径10kmくらいの廃退的な田舎を撮り続けていた京角さんも、今年は都市をフィールドにした。
写っているもは相変わらずよく分からないけれど、ひとつだけ分かるのは、一般的におしゃれで可愛いものは撮っていないということだ。
例えば、おいしそうな料理やデザイン家具、誰が見てもキュンとくる建築物など、完成されきったようなものは写真にしない
。それは誰が撮っても、おしゃれで可愛く、キュンとくる写真になるのだから。都市の中で、たまたま生み出された偶然の構図をカメラに収める。
その構図を探して、外に出ると1日に何万歩もひたすら歩き続ける。
富山に住んでいると、都市は広大な敷地面積のテーマパークに思える。
高層階に雲がかかるビルが聳え、企業や店舗、施設などが有象無象にある。
そうかと思えば、住宅が広がる一角や、都市計画で生まれた公園、町工場などもあって、雑然としているのが楽しい。
中心部から少し離れると、すぐに自然が広がる地方では感じられない壮大さがある。
そんな場所へ何度も行き、目の前から遠方に向かって重なる奥行きや広がりに美しい構図を見つけ、京角さんはカメラを向けていた。
展示タイトルの“New Romantic” は、音楽のジャンルのことだ。
言葉の印象からメロウな雰囲気かと思っていたら、80年代くらいに坂本龍一さんが派手なメイクやヒラヒラな衣装を着て歌っていたあの感じらしい。
You Tubeを見たら、ポップな曲調とメイクや衣装との違和感が面白かった。
大人たちが、時代を斜めに見て遊んでいるのがカッコいい。
展示してある写真を理解してもらおうとか、高尚な感想を聞かせてほしいとか、そんなことは京角さんは思っていない
。一枚一枚のよく分からない写真や、写真が干渉し合うことで生まれる一層よく分からない感じを見てもらえたら、それで十分なのだ。